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hide(ひで)命日22回目ファン想いだった33歳の”死”はどうして?

人間模様
この記事は約7分で読めます。

1998年に亡くなったギタリスト
hide(享年33)の22回目の命日ですね。

hideの死について

そして、

ファン想いのエピソードを

アップしたいと思います。

合わせて期間限定の特別映像の動画も
見てください。

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Yoshikiのインスタ

YOSHIKIが2日、
インスタグラムを更新して
hideとのツーショットを公開してます。

YOSHIKIは
「22年前の今日、親愛なるHIDEが他界した。
今でも毎日のようにHIDEのことを想う」
と一緒にマイクを握り笑顔の秘蔵写真をアップ。

コメントはこちら

22 years ago today, my dear friend & #XJAPAN guitarist #Hide passed away.
I still think about him everyday. #RIP

Tonight, I will talk about the history and memories of HIDE joining X
on the #YoshikiChannel.
Let’s refrain from going to the grave this year.

22年前の今日、親愛なるHIDEが他界した。
今でも毎日のようにHIDEのことを想う。

今夜YOSHIKI CHANNELでHIDEがXに加入した経緯や思い出を語ります。
今年はお墓に行くことを自粛しよう。

#StayHOME
#YOSHIKI

Yoshikiは、

 これまで、何度も新型コロナウイルスの
感染拡大防止への警鐘を鳴らしているが、
今回も

「今年はお墓に行くことを自粛しよう」

とステイホームを呼びかけています。

「今夜YOSHIKI 
CHANNELでHIDEがXに加入した
経緯や思い出を語ります」

と予告してます。

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hide(HIDE)

もう、あれから、22年なんですね。
早いですね。

Hideとは、

hide
(ヒデ、本名:松本 秀人〈まつもと ひでと〉)

1964年(昭和39年)12月13日- 1998年(平成10年)5月2日)
神奈川県横須賀市出身で元美容師

1987年から1997年までX JAPAN(旧名:X)の
ギタリストとしてHIDE名義で活動してました。

1989年にアルバム『BLUE BLOOD』でXのメンバーとして
メジャーデビューをしてます。

愛称は「ヒデくん」、「ヒデちゃん」。

1993年より、hide名義でソロ活動も開始し1996年には
レコードレーベル「LEMONed」(レモネード)を設立

1997年のX JAPAN解散後はhide with Spread Beaver及び
zilchでの活動を開始しますが、

1998年5月2日に急逝

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hideの特別映像

出典:hide Official Management Office

hideの軌跡を盛り込んだ特別映像を期間限定配信してます。

YouTubeでも過去の音楽を聴けます

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hideの死

たぶん、間違って死んでしまったんだと
今も思ってます。

死の前後の行動です。

1998年5月1日、hideはSpread Beaverのメンバーと共に
フジテレビ音楽番組「ロケットパンチ!」の収録を行ってました。
(その際に披露した曲は「ROCKET DIVE、
ピンクスパイダー、ever free、DOUBT’97」)。

この収録が生前最後に収録した番組となっています。
その打ち上げ後、日付をまたいで更に飲み、
泥酔したhideはマネージャーの弟・裕士が運転する車で
自宅マンションまで送られました。

5月2日朝7時30分頃、
hideは自宅マンション寝室のドアノブに掛けたタオルで
首を吊った状態で発見されています。

その後、病院に搬送されましたが、
午前8時52分に死亡が確認されました。

病院に着いた時は既に心肺停止状態だったそうです。

当日午後3時頃から、

「元X JAPANのギタリストhideが死亡、警視庁は自殺と断定」

と速報で報道されました。

原因については、
自殺なのか事故なのか今もわからないまま
22年が過ぎています。

「HURRY GO ROUND」の歌詞や、
ラジオ番組「オールナイトニッポンR」での
発言が意味深長で自殺に関連するのではないかという見方や、
はたまた事故ではなく自殺だと断言している人間の
存在までもあり、様々な見解がありました。

『バンドや音楽活動で悩み酒量が増えていた』などの証言もあり

「突発的に死に踏み切ったのだと思われる」と

警察は報告してます。

「故意による自殺」か、「不慮の事故」かは不明であり、
遺書や「死にたい」と自殺をほのめかす発言がない事や、
ドアノブに柔らかいタオルで自殺する方法は珍しい事から、
不慮の事故とする説があり真相は謎のままです。

また、

YOSHIKIは

「彼は自殺するような人間ではない」と発言しています。


1998年10月24日 hide不在の中行われた
hide with Spread Beaver TOUR appear!! “1998 TRIBAL Ja,Zoo” の
公演前に行われた記者会見で、
マネージャーの裕士は

「hideは生前、ひどい肩こりと偏頭痛に悩まされており、

整骨医が行う首の牽引によるストレッチをしていた。

いつものように牽引していたが、

帰国直後の時差ボケと、

泥酔状態であったために起こった

事故であり自殺ではない」

ことを改めて発表しています。


1998年9月に出版された
「hide 真実のストーリー」には
コンサートで行われる予定であった首吊り自殺の演出の
練習を酔っぱらったまま行ってしまい死んでしまったと書き記されています。

自殺ではなく、

間違って

死んでしまったんではないのかと

思ってます。

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ファンを大切にしていたhide

hideのファンを大切にしていたことは有名で
エピソードもたくさんあります・・・

その中で、テレビ放送までされた話があります。

難病の女の子の話

難病であるライソゾーム病を患ったファンである少女、
貴志真由子さんの「hideに会いたい」という願いを、
支援団体のメイク・ア・ウィッシュを通じて受けた
hideの実話

1995年12月31日、Xの東京ドームライブで少女と会い、
ライブの打ち上げにも招待して少女を友達だと紹介し、
少女から不自由な手で2か月かけて編んだマフラーを
hideにプレゼントしてました。

この実話は、テレビでも報道され
hideに対する見方が変わった人も多かったのではないでしょうか?

※このマフラーは
hideの死後、形見として少女の手に戻ったそうです。


その後も手紙を送ったり、お見舞いに訪れたりという交流を持ち、
少女を励ますことになった。

少女への手紙には

「昔のこととか初めてのドームのこととか忘れていた
色々な絵が見えてきて、かなり感動したんだ。

おかげで、思い出さなきゃいけなかった
いくつかのことが頭にやきついた」

と感謝の言葉をhideは残しています。

その後、


1996年3月28日に少女は治療のために骨髄移植手術を受けますが、
手術後の1996年4月1日に拒絶反応のため心臓に水が溜まり危篤状態となりました。

彼女の母親から
「hideさんの声だけでも良いから聞かせたい」
と電話を受けた時にはその日の予定を全てキャンセルし、
病院へ駆けつけて数時間の間励まし続けたそうです。

結果、その晩に危篤状態を抜け出し徐々に病状は
良くなって数ヵ月後には退院することもできました。

その後にhideは
「できることをするだけ」と
あくまで個人的に骨髄バンクに登録をしました。

しかし、

hideの意向と反して、

所属事務所が独断で急遽記者会見をセッティング

一旦は、
記者会見自体は行われましたが、
会見終了後にhideは

「これじゃあ売名行為じゃねえか!!もしそんな風に
マスコミに書かれてその娘が傷ついたらどうすんだ!!」

と言ってマネージャーである弟を殴り
飛ばしたエピソードもありました。


慈善活動をひけらかすような行動を嫌ってのことであったが、
結果的にはこの報道が骨髄バンクの認知度向上に大きく貢献することとなり、
以後もボランティア活動を続けてたそうです。


難病であった貴志真由子さんは、
hideが他界した11年後の2009年9月30日に、
和歌山市内の病院で、
肺出血による呼吸困難により28歳で他界されてます。

両親は現在和歌山市内で「レモネードカフェ」
(hideが立ち上げたレーベル名にちなんで名づけられた)を営んでおり、
2Fに設けられたライブスペースにはゆかりのミュージシャン等が
度々訪れライブが行われているそうです。

レモネードのサイトです。

まとめ

hideがなくなってもう22年が経っているんだと
感じました。

時代も変わり、
ましたが、

人の気持ちや

想いや思いやりは

変わらないと思います。

この時期、

自分勝手な行動は

慎み、

時代に合った

行動をしないといけないですね。

以上、onekoでした。

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