窪田正孝と二階堂ふみの配役で話題になっている、
3月30日スタートのNHK連続テレビ小説「エール」。
昭和を代表する大作曲家の古関裕而さんと
その妻・金子(きんこ)が主人公のモデル。
その二人については
あまり知られていないですよね
ちょとリサーチしてみました。
朝ドラの「エール」
NHK連続テレビ小説「エール」は
窪田正孝と二階堂ふみが
が主演を務める朝ドラ通算102作目。
モデルは全国高等学校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」
などで知られ、昭和の音楽史を代表する
作曲家・古関裕而(こせき・ゆうじ)さん(1909~1989)と、
妻で歌手としても活躍した金子(きんこ)(1912~1980)さん。
昭和という激動の時代を舞台に、
人々の心に寄り添う曲の数々を生み出した
作曲家・古山裕一(窪田)と妻・関内音(二階堂ふみ)
の夫婦愛を描いている物語。
そして、
関内音のモデルとなった知名度はあまりない
金子さんも
作曲家の夫を支えた良妻賢母?というよりは
そんな型にはまらない
活発な女性であったようですね。
作曲家の古関裕而さん
この方は今では
誰もが知っている作曲家ですね。
平成元年に亡くなった作曲家・古関裕而さん。
阪神タイガースの応援歌やNHKスポーツ番組のテーマ曲など、
今も古びることなく親しまれる昭和のメロディを数多く手がけられました。
古関さんは明治42年福島市生まれ。
独学で音楽を学び、戦時中は「露営の歌」「若鷲の歌」など
戦意高揚のための歌を、戦後は戦後復興を後押しする曲作りを目指して
「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などを作曲。
昭和39年の東京オリンピックでは開会式の入場行進曲を手がけた。
連続テレビ小説「エール」は古関さん夫妻がモデル。
戦前戦後を通じて日本人の心に寄り添い、
エールを送り続けた80年の生涯でした。
こちらは、生前の
古関さんのインタビューもあるので
ご覧ください。
奥様の金子(きんこ)さん
奥様の金子さんについは、これまでは
ほぼ無名に近かったようです。
朝ドラ「エール」の音(おと)のモデルとなった方は、
古関裕而さんの奥様の金子(きんこ)さん
古関金子(きんこ)さん(旧姓・内山)は、
1912年(明治45年)内山安蔵・みつの三女として、
愛知県豊橋市に生まれ。家族は長兄と女性6人。
ドラマ同様、
音楽が好きでオペラ歌手を目指していたそうです。
1930年(昭和5年)1月、
金子さんは
「福島の無名の青年が国際作曲コンクールで入賞」
という新聞記事を読み、
素晴らしい人がいるものだと感心し、
持ち前の行動力からすぐに
その青年に手紙を書きます。
その青年こそ、
のちに金子さんの夫となる
古関裕而さんでした。
ドラマと一緒ですね。
そして文通が始まります。
二人の恋愛は文通から
お坊ちゃん育ちで、
穏やかな性格の楽天家だった古関裕而さん。
そして、
口数は少なかったようです。
しかし、
うちに秘めた情熱は激しかった・・・・・!!!
さすが、アーティストです。
ふたりは1回も会わずに、
文通で交流を深めていきました。
ほんと、文通で??だけで?
ここがすごいですよね。
駆け落ち寸前の失踪事件を起こした挙げ句、
ついに結婚に至ったという
当時としてはたいへん珍しいカップルだったそうです。
金子(きんこ)さんが
「私は貴方が好きです。
私は大好きです。好きで好きでたまらないのです」
と書けば、裕而さんも
「最も愛する(こんな文字を用ふるのをお許し下さい。
この文字以外に、自分の胸中を表現する字は無いのです。)
内山金子さん」💕
(内山は金子の旧姓)
と書くような有様。朱色のハートマークまで登場し、
今でいう絵文字のようなものも登場してるくらい。
読んでいるこちらが恥ずかしくなってくる文面だったそうです。
恋愛期間はわずか三か月
その間にたくさんの曲を作り、
金子さんに捧げます。
古関裕而さんは自分と金子さんとの関係を、
作曲家ロベルト・シューマンとその妻クララになぞらえ、
金子さんを自分の音楽活動のパートナーにする夢を描いたそうです。
結婚生活
1930年6月
古関裕而さんは、金子さんを訪ねて豊橋を訪れ、
2人はその足で福島まで行き、
そのまま結婚・・・
スピード婚 運命の出会いですよね。
その秋には、
日本コロムビアの招きで2人は上京
世田谷区代田に家を構えます。
奥様になられた金子さんは、
帝国音楽学校という音楽学校の声楽部本科に編入、
そこでベルトラメリ能子に師事し、
本格的に声楽の勉強を始めます。
当時一緒に声楽を学んでいた中に
伊藤久男さんや、葦原邦子さんもいたそうです。
金子の声楽の才能は抜きん出ていて、
その声は中山晋平にも絶賛されたほどだったとか。
ベルトラメリ能子の門下生の中では一番弟子で、
『カヴァレリア・ルスティカーナ』や
『トスカ』などの舞台を踏んでいきましたが、
子育てに専念するために学校を中退。
1940年(昭和15年)、ディーナ・ノタルジャコモに師事、
古関作曲の放送オペラ『朱金昭』などオペラ、
オペレッタにも出演したが、
戦争激化でその機会も減少したそうです。
戦後になると、1958年、「婦人文芸」に参加、
のちに委員となり詩や随筆などを寄稿しました。
金子の投資家の一面
金子さんには投資家の一面もありました。
株取引にのめり込み、
金融メディアで「百戦錬磨の利殖マダム」と呼ばれていた
時期もあったようです。
1960年代初頭には、各種の投資情報に目を通し、週4回のペースで山一證券の渋谷支店に通っていたという。「慾ばらないで、一応目標額に来たら、確実に利喰う」と運用法を披露し、「確実なものとしては東芝、三菱造船」などと有望株を紹介する姿は、まさに玄人はだしだった。
文春オンライン
ドラマ「エール」にも
契約書を再度読み直すシーンも
ありましたが、この金子さんの
こういった性格がドラマの中にも
表現されているようです。
1961年には、古関裕而さんと共にヨーロッパ、
中近東へ海外旅行をしています。
1965年に、詩誌『あいなめ』の同人となり、
これまでの作品をあいなめ会からまとめて
刊行するきっかけとなります。
その後、
1980年(昭和55年)7月23日、
乳がんが全身に転移し、68歳で死去しました。
長男の古関正裕さんの今は?
有名な作曲家である
お父様の陰に隠れるのがイヤだったため
大学卒業後は大手の新聞社に就職
その後、早期退職
現在は、
2013年に鈴木聖子、齊藤早苗と共
にライブユニット「喜多三」を立ち上げます。
以前から親父バンドは結成していたものの、
父親の曲を多くの人に広めたいと考えていた古関正裕さんは、
オーケストラ仕様の曲は親父バンドでは演奏が出来ないとして、
「喜多三」結成に至ります。
2014年以降はライブの場を大きなホールに移し、
歌や演奏だけではなく、曲や歌手などにまつわるエピソードを、
映像を使って紹介するトークなども交えた異色ライブを行っています。
まとめ
朝ドラ「エール」の
モデルとなったお二人
作曲家の作曲家の古関裕而さんと
その妻となった金子(きんこ)さんの
恋愛事情をリサーチ、
手紙から始まった
恋愛もあるんですね。
それも、今と同じで
絵文字も使ってやり取りを
されていました。
ドラマは事実に近かった!
こんな出会いもあるんだと感心しました。
メール文化の時代
手紙を書くことも
送ることも(それも手書きで)
なくなりましたが
改めて
いいもんであるなあと
感じました。
「エール」の引き続きの
ドラマ展開が楽しみです。
以上、onekoでした。