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”ピンク・レディ”絶頂期のケイのありえないすごさ【有吉反省会】 

女性芸能人
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「ピンク・レディー」の増田恵子さんが、
21日放送の日本テレビ「有吉大反省会2時間スペシャル」に出演して

“ありえない”状態でコンサート開催に踏み切ったことを明かす場面がありました。

みなさんご覧になりましたでしょうか?

全盛期の時のありえない話【有吉反省会】

出典:YahooTV

ピンクレディの全盛期のころ
あまりにも過密なスケジュールのためテレビ局の階段で倒れたという増田さん
病院へ搬送されると
「腹膜炎」だったそうです。

10日後に日本武道館でコンサートを控えていたため
「手術は延期してください」と懇願するも、
医師からは「無理です!今すぐ手術しないと!」
と言われ従ったそうです。

手術したところ
尋常ではない量の膿(うみ)が腹部にたまっていたため
腹部を閉じることが出来ず「お腹が10センチくらい開いたまま」の状態だったとか。

しかも2週間の入院が必要のところ1週間で強行退院。
リハーサルを経て、そのまま武道館での本番を迎えることになったそうです。

おなかは開いたままだったそうで
「ラップを巻いて本番を迎えた」
とまさかの対処したとのこと。

え?????

「無事2時間のコンサートを終えました」

「ファンの方が待ってくれているから当然でした」


と壮絶な経験を振り返ってましたが、


時代が違っても、ありえない話ですよね。

でも、今も増田恵子さんが元気でよかったです。

増田さんは、もともとピンク・レディとして活躍をされてましたが
ピンク・レディは御存じですか?

ちょっと紹介しますね。

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ピンク・レディーとは

1970年代後半に活躍したデュオのダンス・ミュージック系アイドルでした。
二人組のユニットで、ミー(現:未唯mie)とケイ(現:増田恵子)

デビューのきっかけとなったテレビ番組が『スター誕生!』
出演時は二人おそろいのオーバーオールを着、素朴な雰囲気で登場。
歌も当時ほとんど無名に近く歌った歌も
フォークグループの曲(ピーマンの「部屋を出て下さい」だったそうです。

プロデビューへの道を拓いたのは、ビクター音楽産業の飯田久彦さん
歌手デビューに際し、
全く異なるキャラクターにプロデュースされ
手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装と、
リズムやビートを強調した曲調によって、
田園風景が似合う素朴な二人組が派手な歌謡デュオとなって登場しました。

こうして

「ピンク・レディ」が登場しました。

ピンク・レディーのデビュー・シングル「ペッパー警部」(1976年8月)は
1976年末の「第18回日本レコード大賞」新人賞を獲得、

第2弾シングルの「S・O・S」(1976年11月)、


第3弾シングルの「カルメン’77」(1977年3月)もオリコン1位を記録する大ヒットとなる。
第4弾シングルの「渚のシンドバッド」(1977年6月)は、
ピンクレディー初のオリコン調べでのミリオンセラーとなった。

「渚のシンドバッド」 によって、ピンクレディーの人気はもはや“社会現象”となり、
日本列島に“ピンクレディー旋風”が吹き荒れました。

第5弾シングルの「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月)も
オリコンで12週連続1位を記録する大ヒットとなりました。

第6弾シングルの「UFO」(1977年12月)もミリオンセラーを記録し、
1978年末の「第20回日本レコード大賞」を受賞


第7弾シングルの「サウスポー」(1978年3月)もミリオンセラー

次のシングル「モンスター」(1978年6月)も、続けて
“大ブームの勢い”を受けて、ミリオンセラーを記録!

ピンク・レディーの人気絶頂期は、1977年から1978年までの2年間にわたって続きました。

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ここから、人気の下降が始まります。

1978年以降は、日本ではピンク・レディーに変わる新しいアイドル時代の到来、
また前代未聞の紅白歌合戦出場辞退によりマスコミからの
激しいバッシングを受け人気が急落、
アメリカ進出はしたものの、
アメリカ進出についても日本では失敗と言われることが多かったそうです。

そして1980年9月1日、ピンク・レディーは二人揃って解散を発表。
発表の7か月後の1981年3月31日、後楽園球場で解散コンサートを開催しました。

ピンク・レディの活動期間は4年7ヶ月で一旦終了となりました。

解散後はそれぞれ女優やタレントとしてソロ活動を行っています。

その後、
ピンク・レディーとしては、
2005年までは期間限定ながら数度、再結成して活動も行いました。

増田恵子さんについて

出典:スポニチ

1981年3月31日のピンク・レディー解散後はソロ歌手となり、
デビュー曲の「すずめ」が26.7万枚のヒット。

歌手、女優をその後もつづけていましたが、
1986年頃から芸能活動はお休みされ
1989年に入り、IVS音楽出版バックアップのもとフランスデビュー。

フランスでは仏語6曲、英語4曲でレコーディングされたアルバム
『Simples Confidence』(全10曲)”KEIKO MASUDA 増田恵子”がJUST’IN(ジュスティーヌ)より発売。
同アルバムの日本盤は『Voice Cologne』とタイトルが変わり徳間ジャパンより発売されました。

2002年6月23日、
音響会社「ギルド・ジャパン」社長の桑木知二とご結婚

2003年から2005年のピンク・レディー復活コンサート以後は、
テレビのバラエティー番組への出演が増え、
タレントとしての活動を中心にお仕事をされていらっしゃいます。

2004年9月、自叙伝『あこがれ』を出版、
2005年12月7日、ソロとして15年ぶりに新曲「奇蹟の花」をリリース。
2008年8月6日には19年振りのソロアルバム『Now & Then 〜もいちど遊びましょ〜』をリリース
そして、ピンクレディのメドレーの披露や
歌手、女優、タレントとして現在まで幅広い活動をされていらっしゃいます。

まとめ

増田恵子さんの
有吉反省会出演時のエピソードと
ピンク・レディと解散後の
増田恵子さんについて
まとめました。
相変わらず、細いですよね。

ピンク・レディの時も
細身の方がケイさんだった印象があります。

学校の廊下でみんなが
ピンク・レディの振りの真似を
していたことも思い出しました。

当時みんな歌と振りを
知ってましたよね。

そんなスーパー歌手は
もういないような気がします。

増田恵子さんの今後の活躍を
願ってます。

以上、onekoでした。

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